【序】映画を作る ・準備篇 ~ 『たぬきがいた』って何それ?~

『たぬきがいた』は
多摩ニュータウン出身の監督と市民が協力して
作った自主映画
※令和3年11/2に多摩公民館主催で『たぬきがいた』と『10年後の君へ』の上映会を行います。
詳しくは、以下の投稿に書きましたので、お時間ある方はぜひ観にきてください。
要予約なので、下の投稿をお読みください。
『たぬきがいた』は2013年に撮影された自主映画
『たぬきがいた』は、2013年の夏頃に撮った、
榊祐人のはじめての長編映画です。
榊が住む多摩ニュータウンを舞台に、榊と、榊を応援する応援団が中心になり作った映画です。
市民主体の映画作りと言えると思います。市民主体というか、市民の方に応援していただき、
なんとか完成できたという感じです。それは最新作の『10年後の君へ』という映画も同じです。
多くの方の優しさ無しに、自分の映画は完成できていません。ほんとうに感謝です。
↑ 『10年後の君へ』(2021)
『たぬきがいた』の撮影期間は
2013年の6〜7月末まで。
本編部分の撮影日数は確か…合計で14日間だったと思います。
完成したのは、2014年の10月以降となりました。
企画の最初はシナリオ作り
地元を舞台にシナリオを書いたので、
ロケ場所の半分くらいは実際にある場所を想定して書きました。
ただその場所を実際に借りられるかどうかは交渉次第だったんだけど、
全然決まらず、焦っていたような気がします。
何も決まらない。
何も進まない。
どうやって映画を作れば良いか。何も分からない中で…
制作スタッフも初体験の事ばかりで対処法がわからない。イライラは募る。
やっぱり場所は依然として何も決まらない!
心配性の俺はけっこう焦っていた気がします。
映画を作るってのは、
本当にこんなにめんどくさい事なんだと思ったような気がします。
とにかく1人でロケハン(撮影場所を1人で探す)
基本的に経験値の少ない自分のような監督は常に不安を抱えている気がします。自分はそうでした。
「本当にこんなに何も決まらずに…映画を撮れるのだろうか…」と。
大抵、そこで一旦中止になったりすることも自主映画の場合は多いと思います。撮影中止とか、撮影延期とか。
そんな不安を紛らわすために、よく歩いて多摩の良さそうな場所、使えそうな場所など目星をつけていた。
これに関しては、今でも行っています。
撮影場所近辺の土地勘や、
今の撮影現場から次の撮影現場への大体の距離、
急遽予定していた撮影場所がNGだったとき別の場所を提案できたり、
雨の日の外のシーンでは、
急遽ロケ場所変更してトンネルで濡れないよう撮ったり出来ました。土地勘はとても大事!
低予算の場合、自分が住んでいる場所の半径2 . 3キロ圏内の場所をとにかく洗ってみる、というのはすごく有効な気がする。
夕方からのロケハンでは、一度通っていた中学の前を通った。
確かまだ中学生が2. 3人 下駄箱近辺でキャッキャッとはしゃいでいた気がします。
それから何度もロケハンの際は、わざと中学を通る、怪しまれない程度にまだ灯りの点いてる校舎をのぞいてたりしていたなぁ。
校舎を見てると絶対昔を振り返る。
あー中学時代あんなバカな事したなー、と思うと一瞬映画作りに関する不安を忘れる。
そんな些細な事で自分を保っていたような気がします。
こんなエピソードは、いずれ行いたい、ストリートビューの企画にも生かせそうな気がするなぁ…。
不安と闘う 不安をやり過ごす
歩いて歩いて場所の目星をなんとなく付けて、心を落ち着かせつつ、シナリオに若干の修正を加えていく。
俺が書いたホンだ、俺の映画だ、上手くいくもミスるも全部俺の責任だーと不安と闘いつつ、
でも周りの皆に支えられてなー。
自主映画の場合、監督という名の演出領域での仕事は実はとても少なく、ほとんどは制作です。
場所、
キャスト、
予算、
スケジュール、なども自分で決めていきました。
ほとんどが雑務です。
だれでも出来る仕事を決めて行く、、、そんな仕事がいちばん大変。。
1人でよく酒を呑んでいた記憶があります。でもこれができれば、誰でも映画を作れるなぁ…なんて思いましたね。
俳優さんにコンタクト 仁科貴さんは元々お気に入りの俳優さん
ロケーションと並行してキャストを探しもはじめました。
最初にコンタクト取ったのは…仁科さんかなぁ。
仁科貴さん、元々好きな俳優さんだった。出てもらおうと、けっこういろいろやった。
連絡先を知らなかったので、映画や舞台などに行き、
終演後に仁科さんに挨拶して…でも仁科さん何度会っても全然俺の顔覚えてくれずw
ただ熱意が伝わったのか、その時仁科さんは『パトレイバー』と『春を背負って』という超大作があったのだが、
その合間を縫って、『たぬきがいた』に出演してくれた。
仁科さんのスケジュールがいっぱいだと知り、落胆していたときも、仁科さんが「絶対出るから! 俺絶対、榊くんの映画に出るからな!」と言ってくれたのはとても嬉しかった。
仁科さんは映画の大小関わらずに、
監督の熱意で出演するかどうかを決めてくれるとても良い人でした。
伸び代のあるシナリオと、熱意があれば、俳優は会ってくれる
仁科さんを筆頭に、たくさんの大人キャストの人たちと会いました。
いろんな所にシナリオを配ったのだが、読んでくれて、こちらへコンタクトを取ってくれた人が何人もいました。
自分が書いたシナリオに役者さんが乗ってくれたことに、嬉しくてすこしドキドキしたのを覚えています。
俳優にとって自分の書いたシナリオが価値のあるもの…そんな実感を味わうのも、
本当に久々だったな。
プロのシナリオライターを挫折した自分にとっては、映画作りはリハビリもあったのかもしれません。
自分のシナリオが良いシナリオって言っているのでは全然なくて、
シナリオさえあれば役者さんと会う所までいけるっていうのを知れたのは……本当に大きい。
映画は基本的には俳優で成り立っているので、
監督も兼任する場合は、先ずはシナリオを手に入れる所が最重要ミッションだろう。
自分で書くにしても、人が書いたにしても、読ませるシナリオを配れば、
フィーリングの合う役者さんと出会えるチャンスがぐっと増えると思いました。
子どもキャストとも接触 子どもは1人だとみんな良い子だが……
それから子どもキャストとも少しずつ会っていきました。
『たぬきがいた』は大人よりも、たくさんの子どもたちが登場する映画だ。
最初に数人の子どもたちと会ったのはえっと…2013年の3月末か4月の頭だったと思う。
5. 6人ぐらい来てくれたのかな。
本読みをして、軽いリハーサルをしてワイワイガヤガヤやったんだけど、楽しかった。
その時、本読みや軽い芝居を見たりしたが、みんな基本的に良い子で、
「あーこの子たち、おりこうさんだなー」と思ったが…今思えば、ホントにその考えはあまかったなぁと思います。
子どもキャストと会う時は、お母さんが付き添いで来てくれたとしても、大抵まず僕と子どもの二人にしてもらった。
その理由はいろいろあるのだが、
先ずは当たり前だが2人きりで話したかった。
二人で話してみて、単純にその子に興味が湧くか、自分自身に響くかどうか、
2人だけで話すことによって何のフィルターもなしに感じてみたかった。
2人でたっぷり時間を取って話すと、
どの子にもチャーミングに感じる部分があり、
キャスティングに関して何とかなるかな…とその時点で思ったかなぁ。何とかなるという自信は無かったけど、
面白くなる、という感じはした。
素人でも『作ろうと思えば』簡単に映画は作れる!
正直言うと、
映画は好きだが、素人だし、
撮った事はあるけど、
映画学校の修了制作一本だけだし、
人生の99%は映画の事以外で廻っている。
でもある瞬間から映画を撮ろうと思い、動きはじめると、
途端に「監督!」とか呼ばれたりして……ホントに「俺って監督かよ…^^;」ってよく思ってました(笑)。
周りの人に気を使って貰ってるな、とか思いヘラヘラしてました。
俺自体は何も変わらないのだが、
呼び方が変わるだけで自分自身が少し高尚な人間になったなんて思ったりするんだろうな、
勘違いする人っているんだろうなと、思った。
監督ってほんとにバカで偉そうな人いるから…そういうただエバっているだけの人〜にはなりたくないって本当に思います。
『たぬきがいた』には本当に多くの方の協力のおかげで形になった。
僕自身の力など、ほんとに微々たるもんで、
多くの人の力で、映画が作られるのを実感した。
繋がりを持てるために、自分が心がけているたった2つの事
僕の友人たちで、僕より全然才能があるのに映画を作れない人がいる。
スタッフ探しに必死になり、なかなか人との関係性を築けない。
そういう友人は本当に良い奴なのだが、社交性が無かったりする。 とてもシャイなのだ。
実は僕もけっこう人見知りで……以前は恥ずかしくてなかなか人と話しが出来なかった。
今もそういうところがある。
だけど、今では多くの友人に恵まれ、映画を作る時助けてもらっている。
この点に関してとても恵まれている。
意識していることがある。2つ。
1、一度会った人を、忘れない
2、次回会ったときは、自分から声をかける
これを意識してから、人生がすごく変わったのだ。
(続)