『 映画監督 = 百姓 』 と自分が感じた事について
自分が自主映画を一本撮って思った、
『監督』というものの仕事領域の分からなさ。
ガキの頃、最高に楽しい映画を見て、興味を持ってぼんやりと憧れていた
『映画監督』という存在。クリエイティブな面を取り仕切る神様のような存在に思ってた。
けれど、僕自身の作品作りの実感としては、かなり違った。
特に自主映画の場合、俳優の演技面を重点的に見る、いわゆる演出というもの。
そんなクリエイティブな仕事は、自主では意外と少ない。
それよりも、役者を探す事。ロケ場所を見つける事。なるべくなら正規にその場所を借りる手続きをとること。
そんな事のほうがメインの仕事だったりする。
だから、まず足で稼がないとダメだ。
俳優やスタッフ探しは、「七人の侍」の百姓のように動きまわった。
良い剣豪を探すよう、良いキャスト・スタッフを探し歩いた。
自分にはスキルがない。
僕のようにスキルが全くない人間、素人が映画を撮ろうと思った時。
大変なのだ。そういう意味では。動き回らねば。人の何倍も動いた。
ただ映画が好きな事。
そこから映画を自分自身で作ろうと思っている事。
どちらが上とかではなく、見る事と作る事の差は、
とてつもなく乖離したりするって感じた。
とにかく、継続して今も映画を作れるように、頑張るしかないんだよなって思っている。
「七人の侍」を見た時、自分はどのタイプの侍だろう。
または、どの侍が好きだろうか…って考えた事がある。
だけど、自分は侍ではなく、百姓の方かな。しっくりくるし、なんとなく百姓が好きだ。
村上龍の著書「13歳のハローワーク」の続き。
フランシス・F・コッポラの言葉に村上龍はこう感じた。
映画監督が世界一簡単な仕事かどうか、わたしは半信半疑だった。今でもそれについてはよくわからない。ただコッポラは、次のようなことを言いたかったのではないかと思う。映画を作るという意志を持つ人間にとって、映画監督というのは、この世の中でもっとも簡単な職業だ、ということだ。
村上龍 著「13歳のハローワーク」
良い言葉だなぁ、と思う。